二代目はクリスチャン
言葉にならない。錦糸町までの帰り道にある吐瀉物は、わたしのものだ。あまりにも烈しい感動によって嘔吐してしまった。こんなこと生まれて初めてだ。マスクがいろんな液体でベチャベチャになった。
稚拙な言葉で語りようもない。
でも言葉にしないと死にそうだ。ほんとうに。
横内謙介というお方のなかで、つかこうへいは生きていた。それを目撃してきた。
全編を彩るつかさんの独特な設定や言語感覚や軽やかな身体表現を、まったく違和感なく成立させていた。すべてが借り物ではなかった。信じられない。はっきりいって奇跡だ。
「つかこうへい」を冠した作品を観劇した帰り道、いつも物足りないものを感じていた。それは「俳優とつかさんの関係性によって成り立つ、目の前の人間になら己の誇りを委ねてもいいという痛切な信頼」にあったのだ。今わかった。「北区とつかこうへい」、「扉座と横内謙介」だからこそ成り立つ真実を見せつけられた。極上だった。
扉座の俳優の方々は、紛れもなく人生をかけて横内さんの舞台を引き受けておられる。その信頼が、在りし日のつかさんの言葉を体現しようとした名優たちの魂と共鳴していた。
ひたむきな精神が身体を媒体とすることで、こんなにも美しい表現となりうるのだな。生かされようと必死に藻掻く人にしか生きることができない神聖な空間だった。
若者の我武者羅で誠実な瞳が、オーダーを達成するために無理をいって躍動する俳優の肉体が、今を精一杯楽しむ遊び心の数々が、嘘偽りのない全身全霊の叫びが、覚悟を決めた生き物の静かな集中が、石田ひかりさんの美しさが、あらゆる意志が説得力をもって生きていた。
「俳優の"俳"は、人に非ずとつけられているんだよ」と、知り合いが日本酒を煽りながら笑っていた。そんなどうしようもないとされている人々が、きちんと今回のテーマにこころを寄り添わせていたから、どんなシーンも愛しくキラキラと輝いていた。役の言葉ではなく、自分の言葉として魂がのっていた。
人とはなんて愛しいのか。もっと人生をかけて、自分の大切なものを愛さなければならない。こんな時代だとしても。つかさんがもう生きていなくても。
舞台が人生を変えるものだということ、すっかり忘れていた。精神にこびりついた贅肉を無理くり剥がしてもらったような気分だ。
わたしはいったい何度つかこうへいの言葉にこころの扉をぶち破られるんだよ。いや、もう横内さんの言葉なのか。生きる希望だよ。ちくしょー。
すみません本当にネタバレしたくないんですけれど、あの殺陣はずるいよ。もうあんなの、ファンにはたまらないよ。客席で隣の人を気にせず嗚咽したのは初めてだった。音楽が爆音だったので集中を削いでいないことを願う。細やかな設定や照明や音響や演出、ピンとくる人には正真正銘、垂涎ものですよ。ただ「花束」の使いどころだけは気にくわない。
帰ったら戯曲集読み直そう。いや、あれは人に貸してしまったのだった。これを読んでいたら返してください。
この作品を届けるために尽くされた粉骨砕身の努力。舞台関係者の方々にこころからお礼を言いたい。久しぶりに心の底から演劇を愛せました。素晴らしい時間をありがとうございます。
興奮のままに書きなぐった文章ですが、とにかく、シンプルに「ありがとう!」とお伝えしたい。
悔しくて嬉しくて悲しくて、ショックだ。どうしようもなくなっちゃったな。最高だった。