「このままじゃ足りないよ。」
なんども浴びせられたこの言葉に、その言葉を放つ人に、いつもわたしは申し訳なさそうに、ちょっとだけ右側の唇をあげてみながら、俯くばかりだった。
みちたりる、とは、なんなのか。
「早く起きなさい。時間が足りないじゃない。」
子どものころ、毎朝私の身体は温もりにあふれていた。父は祖父が倒壊させた事業を立てなおすのに必死で、ほとんど家にいなかった。母親は一人で子育てに追われ、日々苦悶と苛立ちを感じていた。それでも朝になれば、わたしは抱き合う父と母の間に挟まれて目を覚ましていた。束の間の夜の帳、眠る間だけは家族が揃っていたのだ。これはなんとも幸せだった。
しかしついに父の努力は間に合わず、山の上に屹立していたお城のような生家を手放さなければならなくなった。そこから何度か転居を繰り返し、生活は不安定だったが、わたしたち家族の間には常に愛が存在していた。年子の妹とまるで双子のように育った。時折父の部屋から流れてくるギターの音が大好きだった。母は明るい性格で、読書好きが高じて不思議な教養があり、読み聞かせが特に上手だった。わたしは一日のうちで眠りのためにベッドに入る瞬間が一番幸せだった。
しかし、段々とそんな余裕もなくなる。なんせ我が家は最終的に四姉妹になったのだ。当時の母の苦労を思うと心苦しい。彼女は明確に安らぎを欲していた。それは子ども心に分かっていた。しかし、わたしにできることはなにもなかった。学校の勉強には興味がなかった。草や虫の種類、野良猫の柔らかい毛や、蟻の軍隊の地図を辿る方がずっと有意義だった。そんな風によそ見ばかりして登校をしているのだ。到底登校時間は守れやしなかった。
友人はきちんといたが、わたしに関わってくれる第三者は、この子はなにか足りない人、という前提条件をもって、親愛をもって接してくれていたように思う。それは掛け値なしに有難いことだった。それでも三者面談で涙を流す母を見るのは辛かった。小学校も中学年になると、自分は育てやすい子どもではなく、むしろ落ちこぼれなのだということが、教員や周囲から向けられる眼差しで分かるようになった。
「勉強しなさい。成績が足りません。」
わたしは周囲を安心させたかった。普通になれば母は泣かない。普通になれば友人はからかわない。普通になれば、普通になれば、みんな安心して笑顔を向けてくれると信じていた。塾に行きたい、といったのは自分からだった。話は少し逸れてしまうが、これは今でも変わらずとても不思議で、落ちこぼれのわたしの傍にはいつも優秀な友人がいる。そして彼らはわたしとの会話を楽しんでいるように見えるのだ。きっと馬鹿と天才は紙一重なのだろう。子どもの頃の友人もまた才女で、彼女ともっと一緒にいたかった。塾に行くという選択はそのための手段であった。そして、彼女と同じことをすれば、周囲の態度は変わるだろうと願った。
母はとても喜んだ。あの勉強嫌いの我が子が、と、これがよくなかった。母を本気にさせてしまったのだ。わたしはこの選択のせいで、余計母を苦しめた。ただでさえ周回遅れの学力を人並み以上にするのはそう簡単ではなかったのだ。中学受験は自分が如何に足りないのかを数値で叩きつけられる残酷な体験だった。母のストレスは臨界点をこえてしまった。そこからはより一層怒鳴られながら過ごす日々だった。手をあげられる日もあった。
周りの中学受験組の友人たちは、もはや義務教育など必要としていなかった。堂々と学校を休み、テストや行事の日になると時々顔を出した。しかし彼らは、足りている人間だ。明るく頭脳明晰に現れる姿を見ても、誰も何も文句を言わなかった。わたしは塾に通いだしても、小学校の勉強すら満足にいかなかった。従って休むことは到底許されず寝不足のまま小学校に通い、複数掛け持ちしていた習い事と塾をこなし、疲れ切ったサラリーマンと同じ電車で帰る生活を続けた。
自分はいったいなにをしているのだろう。なんのために生きているのだろう。と、漠然と考えるようになった。今でも思い出せる。都市開発が進む戸塚駅の改札をくぐれば子ども用のスイカがピヨピヨ、と鳴いた。その無機質な鳴き声を聴きながら、この時わたしは初めて「死んでしまいたい。」と思った。
「あなたには協調性が足りない。」
どんな馬鹿でもありとあらゆる荷物をもたせておけば、トラブルにあっても積み荷を開いて対応できるようになる。歩荷のように知識を背負ったわたしは、なんとか第一志望の学校に合格した。しかし、荷物は荷物なのである。ここでわたしは、あろうことか肩の荷を下ろしてしまったのだ。あれだけ努力したのにも関わらず、また学校の勉強についていけなくなった。この頃には母はほとんどノイローゼのようになっていた。
わたしはほとほと自分の存在に嫌気がさした。希死念慮はいよいよ死神のようにわたしの影法師となって寄り添った。眠りはいつしか癒しではなくなっていた。目が覚めると手足の冷たさに凍えた。現実から逃れるため、読書に没頭した。恐らく本格的に抑うつの初期症状が現れだしたのはこの時期だろう。朝はまったく起きられなくなった。それでも家にいることは許されなかったため、学校に行くふりをして、有隣堂の多目的トイレでバッグを枕にして、本の世界に慰められながら眠った。あれだけ望んだ学校に入っても、自分のやっていることは浮浪者のようだった。普通には、なれなかった。
しかし、なぜか人に見放されない運命にあるわたしは、友人だけは常にいた。学校に行けば話せる者がいたし、親友と呼べる人にも出会った。思うに賢者に囲まれていたから、わたしのような存在にも面白みを見出してくれていたのだろう。それは教師の目に不愉快に映ったらしい。それもそうだ。学校の勉強にはまったく興味を示さず、宿題も真っ白で提出してくるような女が、ふらっと登校してくるなり、それなりに楽しそうに過ごしているのだ。
教師は言った。自分の好きなことばかりしていて、周りが気を遣っているのに気が付かないのか、と。あなたには根本的に、社会的倫理感が欠けている。凡そ人のもちうる協調性が足りない。そう言った。当時は酷いことを言われたと傷ついたものだが、大人になって、あの教師の言葉は伊達ではなかったな、と思う。わたしは今でも、その社会的倫理感の欠如を埋めるのに膨大な時間を費やしているからだ。
中学はなんとかやり過ごせたものの、義務教育を終えると、ついに限界がやってきた。成績は欠席した人を含めて、下から数えて2~3番目だった。まあつまり、わたしはドベだったのだ。ほとんど温情のような形で学校に留まらせてもらっていた。しかしなぜか学校での居場所は失わなかった。不登校でも、放課後になると学校に顔を出せた。そうなったのはうつ症状特有の朝の弱さにも原因があった。だがそのようにしてわたしは、いくつも部活を掛け持ちすることで妙に文化人めいた白痴女として、マスコット的な存在として周囲に認知されたのだ。ここで演劇に出会った。はじめて演劇部で科白を読んだ時の感覚を覚えている。出生地の逗子の海に飛び込んだ、幼いころの記憶。言葉が烈しい水流のように肉体を駆け抜けていった感動が、わたしの肌を震わせてならなかった。
「このままだと単位が足りません。」
高校をなんとか卒業させてもらったわたしは、そこから一年間、虚無に陥った。大学受験は試したものの、心は演劇にとらわれていた。演劇部の顧問から演劇の専門学校を進められるも、両親がそれを許さなかった。私自身も演劇を仕事にできるとは思っていなかった。なぜなら、わたしは醜女だったからだ。結局なににも手が付かず、無駄に塾代だけが重んでいった。
この期に及んでわたしは、みっともなく演劇に縋りついていた。高校時代の縁で誘ってもらった小さな劇団に所属していた。とにかくなにか社会的に帰属するものがあるというのは、わたしにとって地獄に垂れた蜘蛛の糸のようなものだった。ある日、父がわたしを指さして「お前は動かせないレクサスだ。素直に高級車を買えばよかったよ。お前は使い物にならないのに、維持費だけがかかる。」と言った。まったくもって、その通りだな、と思った。
結局、両親が納得してくれるよう教員の資格をとろうと、ほとんど勉強もせず名もない大学へと進学した。祖母が数学の高校教師であり、血縁者に教職関係者が多かったため、我が家にとって教員というのは比較的社会的地位が高かった。そのため資格を取るという名目で進学を許されたわたしは、ここでも落伍者であった。周りは真剣に教員を目指しているのにも関わらず、やはり演劇への未練を断ち切れずにいた。まともに学校にも通わず、覚えたての酒に溺れ、真剣に学んだのは麻雀の役。極めつけには、大学になって初めてできた演劇を通じて知り合った恋人と自堕落な生活を送っていた。
わたしは、この今思うと禄でもない恋人と、先述した劇団から仲が続いていた親友、その親友の憧れていた女優と、小規模な劇団を立ち上げた。何事も覚えたては楽しく、なにより幼いころから疎外者であった自分にとって、居場所ができたのは何より喜びだった。はじめて科白を発してうっかり溺れた海のなかを回遊する日々が数年続いた。世間的には鼻つまみ者でも、演劇は優しかった。
当然のように大学は留年した。しばらく会わないうちに父は立派に会社を立ちなおしていた。努力が実を結び、久しぶりに帰った我が家は富裕層になっていた。長女の体たらくのせいですっかり荒んだ家庭を守っていた母は、もう好きにしなさい、ただ大学だけは卒業して、と言った。わたしは涙を流しながら、「ありがとう。(これでもう少しモラトリアムでいられるな。)」と頭を下げた。清々しいクズである。しかし母が泣く姿をこれ以上見たくなかった。厄介なことに、わたしは家族を愛していた。学費の工面には、人を人とも思わないことでも平気でやってのけた。それで自由でいられるなら、他者などどうでもよかったのだ。自分の半径数メートルの世界しか見えていなかった。
大学ほど母体が大きくなると学年に一人や二人、わたしのような人間が残っているのだ。わたしは喫煙所で一人の友人と仲良くなった。友人は絶望的に単位が足りない状況でも、教員になるという目標に意欲的だった。お世辞にも真面目とは言い難い友に、それ以上の無頼者であるわたしは遠慮なく理由を問うた。友人はニコニコして、社会で生きるにはそれしかないからさあ、と答えた。わたしは夜は演劇、昼は大学と、それぞれの生活を営み始めた。
喫煙所で知り合ったので、友人のことはキツと呼ぶ。キツはガンダム好きで酒と煙草が好きな、綾野剛に似ている変人だった。遺伝子を残す気がないから恋人は作らない、他者に性的な興味をもったことがない、というキツとの距離感は居心地がよく、わたしたちはとても良い友人となった。わたしはキツと行動を共にするうちに、必然的に教職の単位をとれていた。教育に関する授業を受けるうちに、なぜかわたしは自分でも不思議なほど勉強ができるようになっていた。ほとんどの後輩はわたしのような異端者を忌避していたが、なかには面白がる者もいた。そうして奇妙にも留年してからやっと大学にも居場所が出来始め、教育学はわたしを変容させたという点で大いに興味の対象になった。
演劇の方はというと、最初の恋人と別れてから新体制となり、女だけの劇団でなかなか上手くいっていた。そのうちの一人は結婚して幸せになるという夢を叶えて演劇を卒業していった。残されたわたしと親友は、それでも演劇をやめられず、時には俳優として、時には裏方として、できる範囲の創作を行っていた。最後に二人で企画した、はじめて自分で書き上げ上演した戯曲を、たくさんの人が関わってくれたあの公演を、わたしは生涯愛する。そのようにして、わたしは小さな演劇の輪のなかをジプシーのように移動した。この頃やっと学問、家族、演劇、いろいろな世界と自分が噛み合い、繋がった感覚があった。
そしてわたしは2022年に制作として携わった一つの作品において、人間としての尊厳を破壊されることとなった。まだ血が流れ続ける足で通った警察署の無機質な取調室に座り、お情けのように配属された酷いクマをした女警官は、何度も繰り返されるやりとりに辟易する仕草さえ見せた。最後に対峙したわたしの提示した情報と書類に目を通し、女警官はただ一言、このように言った。
「これでは証拠が足りませんね。」
わたしはどこまでいっても無知で、どうしようもないほどに愚かだった。
そうか、今度は危機管理が足りなかったなあ。
つまり、わたしは、どこまでいっても、足りないんだ。
それが分かった上で、生きる気力はもうなかった。
終わろう。どうせ未完だ。それでいい。
しかし、人生の編集者はそれを許さなかった。
病棟で目を覚ましたわたしは、数年ぶりにキツに連絡をした。
キツは無事に教員になり、業務内容は別に構わないが、とにかく朝がつらいと笑いながら嘆いていた。わたしも笑いながら(自分でもなぜ笑っているのか分からなかった。)淡々と起こったことを話した。いつもへらへらとしているキツが、無表情になった。わたしはより一層笑いが止まらなくなった。『わたしっていっつも、ほら、足りないからさ。』
突然、キツは泣き始めた。わたしは素直に驚き、狼狽えた。ごめん、ごめん、と、この時になってやっとグロテスクな打ち明け話をした自分を恥じた。キツは、泣きながら言った。
たりないんじゃない。ありあまってるんだよ。みちたりてるんだよ。
だから、枠に収まらなかったり、それを奪おうとする奴がいるんだよ。
ほんとうにどうして、分からなかったんだよ。
キツとはそれ以来、連絡をとっていない。
あの夜のキツの絞り出すような言葉を、涙を、繰り返し、繰り返し、誰かを、自分を、傷つけるたびに、傷つけられるたびに、思い出すのだ。
みちたりていることを。