いつかかえるところ.
「なんのために演劇をやっているのだろう」
おそらくあらゆる演劇人はこの疑問にぶち当たる。
私は、人間である限り、どんな人間にも演劇をやる資格はあると思う。
ただ、一つだけ忘れちゃいけないことがあるんじゃないか。
それは、人間を大切にできるのか。
これに尽きる。
だから私に演劇をやる資格はないのかもしれない。
今、この文章を打ちながらこみ上げる涙を抑えられないでいる。
それは何故かというと、ショッキングな出来事があったからなのだけれど。
詳細は省くが、まさに、青天の霹靂だった。
目を覚まして告げられた言葉の意味が分からなかった。
裸足で車に飛び乗った。アクセルの冷たさを覚えている。
ラジオから流れるクリスマスソングが、忘れられない一日になることを示す。
自然発生する不条理や理不尽に対して人間はあまりにも無力だ。無防備だ。
だから言葉を残しておきたいと思う。この記事は自分のために書く。
誰にも心を開けない時、心の扉をすり抜けるのは言葉だ。
「命は大きな海のような場所からこの世にやってくる。
そして、いれものの身体に宿る。
所詮かりそめの命なんです。
いれものが壊れたら、かえっていくのが命です。
いつかかえるところへ。
だから、死ぬということは恐ろしいことじゃないんですよ。」
FF9みたいな話だな。 とぼんやりと思った。
初めて自分でお金を払って、尊敬する先生の授業を受けに行った時の記憶。
旦那さんをなくした苦しみをどのように受け入れればいいのか、
という相談の答えだった。そんな宗教みたいな話で癒されるかいな、と思った。
今ならばわかる。かえっていったのだ。
はにかむように笑う人だった。いつも恥ずかしそうに俯いて。
ぼそぼそと話して、年頃の女の子に何を聞いたらいいのかも覚束無い。
訛り交じりの穏やかな声色で、どんな人にも謙虚に応対していた。
そんな姿が、同じく人見知りで会話の苦手な私には喜ばしいくらい親しみを覚えた。
こんな人が生きていること。そんな些細で偉大なことを、横目で流して見ていた。
車を運転しながら、気がついたら叫んでいた。
今日明確に分かったことが一つある。
「失ってから存在の大切さに気がついた」
ありがちなメッセージだ。
でも、そんなの、ださい。ださいよ。ださすぎる。
失ってから気がつくような愚者なんて。
諦観に浸って自己満足するような愚者なんて。
いつだって大切なものは目の前にちゃんとあった。
そして絶望した。
お知らせが耳に届いたとき、ぱっと思った。
「ああ、これで、大切なものを失った人の感情が分かる」
明日はもっと生々しいものを目にするんだ。
これは芝居で役に立つぞ。
どんな気持ちになるのだろう、と。
私は悪魔に魂を売り渡したのか。
人間じゃない。
しかし同時に思った。
演劇をするのはこういうことだ。
人間でありながら、人間である自分を観察する。
人を見る。
それは自分ですら例外ではなく、解剖を行うような痛みを伴う。
グロテスクな部分に向き合うことでもあるのだ。
メスを入れた。
自分がまた一つ分かった。
演劇から離れたいと強く思った。
(ここから下の文章は2日後に書かれた)
いつかかえるところ。
どんな場所なんだろう。
そこにはこんな感情はあるのだろうか。
いまだ混乱の中にいる。
それでも、演劇をしている。
現実を受け入れて、空想を作っている。
わたしはなにをしているんだろう。
心がこんなに震える現実を前に。
空想を作ることの意義ってなんだろう。
小田和正の「グッバイ」。
歌詞がどうにも良くて、なんだか聞いてしまう。
サカナクションの「グッドバイ」もいい。
Goodbye.
いったいどれだけの人々が、
「さようなら」をきちんと伝えられるのか。
愛別離苦。
人間の苦しみは、生まれてしまった苦しみから始まり、死んでいく苦しみに終わる。
どうせ苦しい。
そして、いつか終わる夢なのだとしたら、
人生になんの意味がある。
いつか終わる夢。いつかかえるところ。
いつかっていつだ。
まあいい。いつか終わるんだ。
あたりまえだ。
でも、あたりまえなことの多くは、
あたりまえではない。
おそらくわたしはこのことを何度も忘れて、何度も同じことを痛感して、後悔して、また生きていくのだろう。そして、その度に決意は硬度を増していくのだろう。それが、心を磨いていくということなのだろう。
その時、私は誰よりも優しく、誰よりも人間を思える人になっているはずだ。
忘れたくない思いがある。
これを背負って生きていくのだ。
それが共に生きるということなのかもしれない。
私は自分の命と、記憶を乗せて生きる。
いつかかえるところを目指して歩き続ける。
今はそれを希望に生きている。
そして人生は続く。
2019/12/27 御法川わちこ