NARRATIVE

闘病日記と化した雑記です。

シンベリンという作品について①

 

 先日Okami企画さんに出させていただきました。誠に光栄かつ素晴らしい体験でした。

 

 (こんな芋女が、ほんとうに、ご迷惑ばかりおかけして……。

 素晴らしいみなさまとご一緒できたことが人生の宝です。

 ここを語り始めるとそれはそれで長いので泣く泣く割愛します。

 地球に生まれてよかった。)

 

 さて、芋女は思いました。なにをやるのか。

 題目は「シンベリン」。なんと、シェイクスピアだというじゃないか。

 正直、聞いたことない。なんじゃそりゃ。

 と思った。が、読んでみるとこれがまあ面白い。

 

 極めてお恥ずかしい話だが、シェイクスピアをきちんと読んだのは初めてだった。そこで、今回の舞台のすばらしさを振り返りつつシェイクスピアという人の面白みと戯曲について少し話していきたい。が、これは不眠症なりかけの女の戯言寝言だということと、教養のなさからくる妄言だということを念頭に置いて読んでいただきたい。

 ハリボ食べながら……。

 

 ただ情熱だけで語ります。居酒屋でやりたいけど、現実世界の私は口下手すぎる。

 シンベリン、見に来なかった人がこの世界に大勢いることが悔やまれる。

 という思いを込めて。

 

 論述式でもなんでもなく、一個人の感想です。

 もはや語られつくしたであろうに、わざわざ文字にする野暮さたるや。

 恥を忍んでいきます。いざ。

 

 

 

 シェイクスピアという人間は、おそらく神である。

 

 最初に思ったことはそれに尽きる。

 なぜなら、私は戯曲の面白さというのは、人間や世界に対する個人の価値観や捉え方が正確に描き出せているか否かだとおもう。のだが、その精密さ、シェイクスピア、鋭利すぎる。いったいどのようにメスをもてば、このような解剖が行われるのか。

 おそらく多くの創作に携わる人々というのは、面白いものを作りたいと考える。その姿勢は正しい。それを批判するつもりは毛頭ないのだが、創作物が芸術たりうるには、科学的な姿勢が必要なんだと思う。それを教えてくれた。思うに、シェイクスピアという人間は、優れた脚本家であり演出家である前に、人間概論についての研究者としての姿勢がいい。

 「人間というものの在り方を見破り、本質を描き、その姿勢によって人生を飛び越えて、貫いていくもの」。

 それは、面白いものを作りたい、面白いものを観たいという、一般的な作り手や観客の待ちの姿勢とは芯から異なっている。彼の作品は、狂気的に突き詰めて作られている。それは受け手を内側から蝕む狂気である。そのメカニズムは後述する。

 戯曲内で生まれた人間はさらに進化し、物語というスペクタクルに生きる。そこには彼の世界の中での進化論に沿って成長し葛藤する人間が描かれている。一つの戯曲内で完璧な世界が構築されている。

 はっきり言って、神だ。まさしく。

 

 私は浅い人間なので、こんな例えをいいだす。

 ピカソゲルニカの素晴らしさというのは、(もちろんさまざまな要因はあるのだが取り立てて言うのならば)あの一枚の絵の中に世界を構築しているから、そしてピカソの価値観といったものが鋭利に表現されているからであると思う。そして、これはシェイクスピアもそうなのだが、どことなく愉快な色彩を感じ取る。動き、表情、これは人間愛である。愛憎といったほうがいいかもしれない。

 

 しかもさすが神はレベルが違う。

 例えば、私たちは何となく勧善懲悪の概念が植え付けられている。なんとなく、良い奴は救われて、悪い奴は地獄に落ちるという考えがある。しかし、シェイクスピアは、そういった個人的な思考さえも見切っている。彼の世界では、悪い奴がいい目にあい、善人がひどい目に合う。そして、最後には報いを受け、最後には正義が勝つ。最後には。

 信じていたものに裏切られ、悶え苦しむ人間を描き切るのはなぜか。それは、シェイクスピアという人間にとっては、偽善的な口先だけの人間も、信念をもったイノセントな人間も同じ秤にのせられているからなのであろう。

 誰だって自分がかわいいので、自分の正当性を信じてしまう。自分という意識と精神から抜け出せないのである。しかし、彼は違う。他者を理解し、愛する。そして、それを決して肩入れせず、自分自身でさえも同じ重さになることができる。だから、どんな残酷な運命も受け入れることができる。運命を見つめるとき、彼は神の目線になっていて、人間を見下ろしている。ここで、彼の筆は物語を語り始める。主観と客観の精度が神である。

 

 ものすごく身近な話をすると、例えば、友達が浮気されたとする。

 私たちは、おそらく、大切な友達を傷つけたその恋人を不快に思う。

 しかし、シェイクスピアにとっては、その大切な友達と、その恋人の重さは同じなのだ。なんなら、「分かる」とまで言ってのける余地すらある。

     もちろん、人間愛に溢れる彼はそんなことは言わない。寄り添うだろう。心を尽くして言葉をかけるだろう。

  だが、本質的に「人間を人間として捉えている」ことに変わりはない。そこには、所謂、身分の違いというものも、性格や思想による差異もない。

 人間には自分という価値判断の核(自我)があり、自分の考えがある。自分の敵を理解するのは苦痛である。しかし、その敵に対して、そして味方に対して、肩入れせずに同じ目線に立ってモノを考えることの難しさは、ある程度生きてきた人間ならばどれほど困難かご理解頂けると思う。

  人間を人間として、一つの生命を等しく誠実にみることの難しさ。

 人間としての心のフットワークの出来が違う。

 心の曲芸師である。

 

 

 さて、シェイクスピアの台詞回しというのは独特で、話の展開も突拍子がない。彼の作品はよく、身振り手振りが大げさで、長ったらしい台詞を言う、という印象によって語られる。しかし、そこに彼の真骨頂があらわれる。

 

 シェイクスピアの世界では「リアリズム」というものを踏み越えて、人間というものの真実を追求するためにあらゆる技法が用いられている。一般的な人間なら躊躇してしまうような遠慮というものは欠片もない。

    なぜなら、シェイクスピアの根本的な狙いは、人間の内側にある、感情や情動を強大な形で誇張することにあるからである。彼は執念に近い狂気をもってこれを達成し尽くしている。

 

 例えば、シンベリンはオープニングを終えると、王妃のこんな台詞から始まる。

 「愛が引き裂かれることの痛みが私にわからないと思う?」

 愛が引き裂かれることの痛み……?

 瞬間に思い浮かべることは難しいのだが、ゆっくり考えるとこれが実に明快かつ映像的であり、優秀な美しい言葉の群であることがわかる。

 

 なんとなく、ハートを思い浮かべてみよう。

 それが、両側から力が加わって、裂けていく。

 そう! まさにハートブレイクである。

 これが、この生々しくも優れた心の痛みの比喩が、たった数文字の、一行の言葉の羅列で描かれている。ドストエフスキーなら3日はかかるね。

 これが続いていく。情報量が大変なことになる。

 とんでもない精度の比喩表現。表現の暴力。

 

 

    なぜそのようなことをするのか。考えてみた。

 彼の比喩表現を受け取った人間はその言葉によって(言葉の意味を考えることによって)、自分の内的世界にあるハートブレイクの経験をなんとなく思い浮かべることができる。こうなるともうしめたものである。巧妙なギミックだ。

    シェイクスピアの誇張表現は、受け手の中にある真実を引き金にして、芸術的な真実へと形を変えて襲い掛かる。よくわからないけど、すごいの正体はおそらくこれである。こんな芸当ができるだろうか。

    一般的な劇作家が、一生をかけて生み出すひとつの真実を、パンチラインを、惜しみなく注ぎ込む熱意と狂気。優美なフロウ。ラッパーになったとしても食っていける。

 

     そして、それは決して観客にだけ向けたものでは無い。シェイクスピアを行う役者は言葉に身を任せたほうがいい(私はこれの意味に気づくのがものすごく遅くて後悔ばかりである)。彼はあらゆる人間に対して共感している。言葉を丁寧にさらっていけば、必ず「あ、この経験自分にもある」という「わかる」が転がっている。

     このことは、シェイクスピアという人間が、科学者であり哲学者であるという証明に他ならない。彼は、人間の心理というものの普遍性/不変性に辿り着いている。それは時代を越えて変わらないものであり、どれだけ生活や文化が変化しても揺るがないものである。人間の根底を流れている真理を見出している。

     一人の温かな人間愛をもった研究者が、幸運にも筆をもち私たちに共感していく言葉たち。その包容力を無駄にしなければ、シェイクスピアは演じられる。

     どんなに純白な人間も、どんなに劣悪な人間も、どんなに惨めでも、どんなに誇らしくても、あらゆる感情に対して、シェイクスピアの「いいね」は絶対に肯定してくれる。

 

 

 

 シェイクスピアの仕掛けは言葉だけではない。人間を表現するために、シェイクスピアは絶対に手を抜かない。従って、道具があらわれる。例えば、「手紙」。その当時の人々の身近な経験に最も寄り添ったものだ。誰もが手紙でやり取りをして、秘密を打ち明けあい愛を語った経験がある。それを利用して、彼の言葉は受け手を内側から食い破る。私はシェイクスピアが現代に生きていたら間違いなく戯曲内にLINEを出しただろうなと思う。

 

 

 また、シェイクスピアは神なので、天候すらも利用する。

 それを知ってから見ると、冒頭から最高に面白いんだなあこれが……。

 

 というのも、シンベリンの冒頭は嵐のシーンから始まる。

 そして二人の男が、大嵐の中、この物語の核となる部分を話しちゃう。

 

 嵐の中、大事な話をまずさせてしまう。

 そう、実はシェイクスピアの世界では無駄というのは一切ない。

 嵐の中で男二人が傘をもぎ取られそうになりながら、宮廷の秘密を話す。

 この人間の姿の面白みと存在価値の付与にシェイクスピアの才覚が光っている。(いや、脚色の波田野さんと演出の中山さん、そして演者の優れた才覚も伴ってさらに輝いているのだ。わかりきったことだが。)

 

  いわゆる、「嵐の予感」である。そして、その続きの言葉が「愛が引き裂かれることの痛みが私にわからないと思う?」である。実際に、シンべリンという物語はまさに嵐のような作品になっている。その説明としての冒頭の完成度を思うと、私はやはりシンべリンはシェイクスピアによって作られたものだと確信してならない。

     そして、そのように丁寧に読み取っていくと、感情表現を描くために考え抜かれたシェイクスピアの創意工夫と執念にぶち当たる。構成さえ芸術的だ。

 

 

 

 

 ……と、ここまで語ったところで睡魔が来てしまった。冒頭しかカタレナカッタヨ……。

 次回は波田野さんの言葉とシェイクスピアの通訳としての的確さ、研ぎ澄まされた読解力による面白さのあぶり出しの精度と、シェイクスピアの根本的信念と中山さんの演出であり役者としての信念の相性の良さについて語りたいと思う。(いつになるかは分からない)

 

 ここまで読んでいただけた猛者がいたならば素直に感謝したい。

 読みにくい文章で申し訳ありません。ほんとうに……。

 ありがとうございます。

 

 そして人生は続く。

 

 御法川わちこ 2020/01/26