NARRATIVE

闘病日記と化した雑記です。

演劇について①(3840×2160)



うん、これは酔っ払いの戯言なんだ。

酔いどれ御法川わちこです。

たまには演劇の話をしたいと思う。


ひとつの答えに至ったので共有したい。

というか忘れたくないので書き残す。




「演技、うまいね」


終演後飛び交うこの黄色い声を聞き流しながら、或いは自分で発していながら、いつも鬱屈とした気持ちになった。なぜなら、その言葉の影に潜む『あなたが違う人間に見えた』という意味が納得できなかったからだ。

役者はその人自身であることの証明として、舞台に立っているのではないか。こんなに代用品まみれの世界で、この瞬間この空間この音と光の中で、自分だけが自分であるという意識を確立したいのではないのか。

私の思う役者の本質には、自己否定欲求と自己承認欲求から来る芝居の質がある。どちらも正解とは言わない。それは紛うことなき自己表現なのだ。生きたい、ないしは死にたい=生きたい。という意思表示だからだ。

ところが、どうやらこの世界は違う人間に映る才能を演技力と判断しやすいようだ。間違いなくその人自身から発せられたものなのに。

それが歪曲して伝わるのが嫌だと強く拒絶反応を示す心を押し殺して、「そうだね」と答えた。笑った。私は臆病者だ。


私は舞台上の何を見ているのだろう。

そんなこと自明の理だ。

人を見ているんだ。

その現象を。事象を。森羅万象を。


それを、



(ここから上の文章は一週間前に書かれたものです)





………。



………………。



………………………。



ぬああああああああああい!


忘れたああああああああああああああ



綺麗に忘れたああああああああああああ



酔っぱらいのバカヤローーー!!!







なんか多分、自分の目に貼られてるフィルターを剥いで、綺麗な解析度で物事見たらどうなるのか気になりません? 

それがどこで変化するのか気になりません?


本来の意味でのフィルタリングされてないか。



対象事物が複雑化すればするほど、己の鑑識能力は弱くなるのだから、やはり事前に必要なのは、自己客観視なのだよ。


→ 自意識過剰って主観と客観のどちらからも物事を見つめてる素晴らしい表現だし、そうであってもいいんじゃないの。



だから、私は圧倒的オリジナルを目指すけど、お前どう?





って感じの話をしたかった。


たぶん。


し、多分真理に辿り着いていた。


たぶん。


複雑化した真理を同一線上に統合。


した。


たぶん。


のに。


忘れた。



よっぱらいってすごい(ひどい)。






BADEND。