私について④創造はセラピー
私は言葉にならない思いが多すぎる。
だから演劇を選んだのか。
記憶に残る1番最初の演劇体験を、
ふとした瞬間に思い出した。
小学校の芸術体験の授業。
それは「影絵」だった。
体育館に敷き詰められた数百人の子ども。
気が狂いそうなほど膨大な熱量に吐きそうになりながら虚空を眺めていた。感覚を麻痺させていないと叫びだしそうで仕方ない。笑い声、怒鳴り声、泣き声、沈黙、それぞれの自我が弾ける。目の前が混沌で溢れる。ドラム型洗濯機を見つめる時の意識の混ざり。亡者の声のような囁き。たくさんの目がぎょろぎょろ動き回って、いつも誰かが何かを監視していた。途方に暮れる。学校が大嫌いだった。
私はそんな子どもだった。
気づくと暗幕が体育館を静かにさせていた。
正直内容はあまり思い出せない。
ただ、あの時感じた照明の温かさ、音楽の優しさみたいなものを、心がずっと覚えている。涙が出ていた。
どうしてこんなに過敏な精神なのか。
生きている間中、透明なモルヒネを打つような訓練を続けてきた。だから、今でも曖昧な瞬間が多い。時折ショックを避けるようにぼんやりと思考を微睡ませる時もある。そういう時はあとから思い出しても記憶が飛んでいる。
でもあの瞬間に報われた気がした。
歓びを感受することが出来て幸せだったな。
何かを創造することは、きっと私にとってセラピーなのだと思う。あの頃の自分を救えるのは今の自分しかいないのだ。感情を掬いあげることができるのも。
そしてこういう思いを抱えた人というのは一定数いて、誰かの為にもなるのではないか。
だから私は演劇から希望を奪えないのだ。
もう私は充分傷ついた。
これからも傷つくことは止められない。
ならば、何かを救いたい。
優しく在りたい。
人間的な負の感情を抱えていたくない。
それを持っていると段々心が痛くなる。
本当に苦しくなる。
無自覚に行った時など生命活動を許せない。
だから私は私のために優しく在りたい。
これはエゴだ。でも構わない。
演劇は優しいものだ。
私はそれを証明したい。
言葉にならない想いを見つめていたい。
誰の為でもない、私を救うために。
生き苦しい。
けれど生きていたい。
窒息する迄に、どうか。
舞台上で呼吸がしたい。
2019/04/03 御法川わちこ