観念について③容れ物
例えば。
私の食事は、私の栄養の容れ物だ。
私の住処は、私の生活の容れ物だ。
私の劇団は、私の表現の容れ物だ。
私の身体は、私の精神の容れ物だ。
私の言葉は、私の思考の容れ物だ。
私の人生は、私の物語の容れ物だ。
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容れ物は所詮、容れ物なのだ。
空っぽのコップのようなものだ。
コップに水を入れる、
も、ヘドロを入れる、
も、私の自由だ。
コップを磨く、
も、水垢まみれにする、
も、私の自由だ。
けれどそれを同一のものだと考えてはいけない。
密接な因果関係にあるのは間違いない。
しかし、決して同一ではない。
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どんなコップを選ぶのか。
そもそもの容量と、形状は大事だ。
ボトルネックになる部分があってはいけない。
慎重に決めるのだ。
適切な答えを選ぶことは安定を導く。
人は不安を最も恐れる。
不安定。
これが全ての不幸の正体である。
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もうはっきり言ってしまおう。
生まれたことに意味などない。
だから、生きていくことに意味があるんだ。
己の物語を書き上げることに意味があるんだ。
負けるな。
決して死ぬな。
あなたの人生が、
たとえどんなに惨めでも、
あなたの物語は、
どこまでも魅力的になれる。
私はそれを読んでいたいんだ。
楽しみにしているんだ。
だから諦めないで書き進めてほしい。
容れ物に惑わされるな。
それはあくまで容れ物だ。
空虚なものだ。
真に輝く本質は、そこにはない。
自分なりのハッピーエンドでいいのだから。
そして人生は続く。
2019/06/30 御法川 わちこ