私について⑨違うかもしれない。
それは違うんじゃないですか。
と、言いたい。
いつでも。
思っている言葉が上手く出てこない。
纏まらないでモヤモヤしてる。
つい、私は頭が悪いなあ、と思ってしまう。
反論するのは、勇気がいる。
己の正しさを主張したいのか? ジブンよ。
言いたい。
名誉と知恵、勇気が足りない。
しかし、言いたいことが生まれている。
ぼんやり生きている訳じゃない。
それが何より有難い。
沢山身につけよう。
経験も知識も。
Life is quite that simple.
うむ。
人生がどんどん豊かになっている実感がある。
もう6月? という気持ちはない。
まだ6月? という気持ちでいる。
世界に関心を持つようになったからだ。
最近は本当によく歩いている。
↑1月のデータ
↑今月のデータ
ご覧の通り、AVGが約5000歩程増えている。
私は歩く量と思考量は比例するんじゃないかとすら思う。それほど、脳内宇宙はかつてないスピードで広がっている。心做しかアンテナの感度もいい。本来のテンションに戻ってきている。具合がいい。
生きているな。
本当ならもう少し読書をしたい。
最近は張り切って生きている。
ので、どうしても時間が取れない。
睡眠時間を優先してしまう。
しんどいなあ、と思うこともある。
でも、楽しいのだ。
生きているのが。
そう感じていながら、今日は心を痛めていた。
(Yahoo! Newsより)
(Yahoo! Newsより)
今日は凶悪な事件が2件も起こってしまった。
いずれも刃物による犯行だ。
1日中、前者の事件に関することを考えている。
あまりこういうことをblogで述べるのは、どうなのだろうと思いながらも、少しだけ触れたい。
ノンフィクションだ。
4年前、私が教育に携わりたいと考えた時、心には幼少期に読み込んだ「窓際のトットちゃん」があった。黒柳徹子さんの言葉たちだ。
子どもは疑い無く、希望そのものである。
どのような性別、国籍、生い立ちであろうと。
私は本当にそれを確信している。
今日その尊い命が、奪われた。
日々、奪われている。
クエスチョンばかり浮かぶ。
私は、なぜ、を知る必要があると思う。
それも、犯人は自ら奪ってしまった。
なぜ。
元々は誰しもが尊い子どもであったはずなのだ。
それを奪ったのは誰だ。何だ。何故だ。
民衆は犯人を知りたがっている。
被害者じゃなく、加害者を出せ。
そんな意見ばかりだ。
「死ぬなら、自分一人で死ねばよかったのに」
こんな言葉が散見される。
あまりに……遣る瀬無い。
擁護するつもりは毛頭ない。
しかし、それは、違うかもしれない。
その心は。
NARRATIVE.
私がタイトルにした言葉だ。
今、この意味を、深く心に問いかけている。
思考停止せず、
分かることを、
分かりたいと思わぬまま。
ただ、私は分からないことが分かりたい。
違うかもしれない。
違うかもしれないじゃないか。
違うかもしれないじゃないか。
2019/05/27 (5/28加筆修正)