NARRATIVE

闘病日記と化した雑記です。

ミッドサマーのネタバレ雑記するよ

 

 

  イントロダクション。

 

 

 斎藤工さんの話していたことで印象的なエピソードがあって、「本当にいい映画はエンドロールの後も、余韻として現実の中に上映されている」というような内容のことを仰っていたんですね。私にはその言葉がすごく刺さって、一つの指標として参考にしているところがあります。ミッドサマーはそういう意味で、とてもいい映画でした。

 

 ネタバレ記事なので、閲覧にはご注意ください。

 なるべく鮮度がいいうちに書き切りたいので、あんまり添削してません。

 荒っぽい文章なのですが、何卒宜しくお願い致します。

 

 

  あらすじ。

 

ストーリー

 

大学生のダニーは精神的な疾患を抱えていた。ある冬の日、同じく精神疾患だった妹が失踪し、両親を道連れに無理心中してしまう。自身の疾患と家族を失ったトラウマに苦しみ続けるダニーを、恋人のクリスチャンは内心重荷に感じながら別れを切り出せずにいた。

翌年の夏、ダニーはクリスチャンと一緒にパーティに参加した。席上、彼女はクリスチャンが友人のマーク、ジョシュと一緒に、同じく友人であるスウェーデンからの留学生ペレの田舎町ホルガを訪れる予定であることを知った。クリスチャンはペレから「自分の一族の故郷で、今年夏至祭が開催される。夏至祭は90年に1度しか開催されないので、見に来てはどうか」と誘われたのである。大学で文化人類学を専攻するクリスチャンは、学問的関心もあってホルガ行きを決めたのであった。

ホルガを訪れたダニー一行は、幻想的な風景と親切な村人に初めは魅了される。ところが、夏至祭はただの祝祭ではなく、ペイガニズムの祭りであった。そうとは知らずに参加したダニーは、不安と恐怖に苛まれていく。

 

(Wikipediaより転載)

 

 

  簡単なまとめ。

 

    エログロ要素があるので、人は選ぶとは思うのですが、メッセージとしてはかなり興味深いものがあったので、下記では考察もどきをしています。間違えていたらすみません。覚えている限りで書き連ねます。

 

   ちなみに私は、ホラー映画苦手なのになんで見に行ったの? と、約2時間半のうち1時間くらい後悔していました。映像的な美しさ、ドラッグの使用によるトリップの感覚、面白かったです。時々、笑えます。

    「愛」と「家族」と「宗教」の主題があるように見えますので、それらの悩みについて経験がある人が見るとまた面白いのかも。各要素でも語れます。

   カップルでは見にいかないほうがいいです。

 

 

 

 

   以下ネタバレ雑記です。

 

 

 

 

  冒頭解説とカップルについて。

 

(ここから冒頭解説と主人公の紹介です。

 考察はもう少し下にあるので、時間のない方は飛ばしてお読みください) 

 

 

 物語は主人公のダニーが、双極性障害の妹から送られてきた意味深なメッセージに、頭を抱えているシーンから始まります。

 

 双極性障害というと、なんだか堅苦しいですが、これはいわゆる躁うつ病です。本人の意思に関係なく、気持ちの浮き沈みが激しくなってしまう病のことですね。

 そんな妹の存在によってなのか、それともそういう血筋なのか、ダニー自身も自分の感情をうまくコントロールすることができません。彼女は常に強烈な不安を抱えて生きています。そのために、抗うつ薬を飲んで感情抑制するシーンが冒頭にあります。

 身内に精神的に不安定な人間が存在していて、自分もひょっとしたらそうかもしれないと思ってしまう心理は共感できます。

 

 そんなダニーには恋人がいて、クリスチャンという男性です。

 

 彼は院試験を控えているのですが、肝心のテーマが思い当たらず悩んでいます。なんで院進するんだ。しかし、これは実は彼の人間性をかなり端的に表現していて、クリスチャンには自分の意思というものがとても弱く描かれています。そして、保身に走る傾向があり、しばしば他人を蔑ろにします。

 ダニーに対しても、真剣交際というよりは惰性で付き合っている気配を漂わせています。そんな彼の態度が、ますますダニーの寄る辺なさを深めています。

 

 彼は悪人なのか? という問いには、私は簡単にはYesと答えられない部分があって、というのも、クリスチャンの性格はたしかに美しくありませんが、誰にでもある部分ではあるな、と思うのです。彼の欠点は、ともすれば弱さという言葉で片づけることができる程度の問題です。基本的には、ダニーに対しても友人に対しても穏やかに思いやりをもってアプローチすることのできる人間です。

 

 

 さて、妹のメッセージに悩むダニーは、恋人のクリスチャンに電話をかけます。ここでも、何度もパソコンと携帯を交互に見ては、恋人に相談するか否か葛藤する描写があります。電話に出たクリスチャンは、曖昧な対応をします。ダニーはそんな恋人の態度に更に傷つき、涙をこらえられず、別の人間に電話をかけて心情を吐露します。ここで抗うつ薬を飲みます。

 

 クリスチャンはというと、友人とちょっと治安の悪い飲み屋にいました。めんどくさい彼女とはさっさと別れて、もっと刹那的な情熱を楽しもうと友人たちはけしかけます。またしても曖昧に言葉尻を濁すクリスチャンに、ダニーから電話がかかってきます。友人の制止もありましたが、彼はなんだかんだで彼女を放ってはおけないので電話に出ました。すると、電話口から聞こえてきたのは、慟哭のような泣き声でした。

 

 こうして雪吹きすさぶ日に、妹は自殺してしまいます。しかも、親御さんを巻き添えにして、無理心中してしまうのです。このショックによって、ダニーは本格的に精神的不安を抱えて生きることになります。

 そして、彼女は明確に居場所を失います。

 

 

(冒頭解説終わり)

 

 

 

  考察。

 

 

  • 迷惑をかけるということ。

 

 

 ミッドサマーを見終わった後、私が一番最初に思ったことは、迷惑というものの価値観はなんて厄介なんだ、ということでした。

 例えば、クリスチャンの属する友人グループでは、ダニーは明確に迷惑な存在として描かれています。そして、ダニー自身も迷惑をかけているというのを自覚していて、発作的に沸き上がる不安感を押し殺して、人気のない場所で感情を処理します。 

  もっと大きなコミュニティで見ると、社会という環境の中でも、ダニーは迷惑な存在です。もとは精神的に不安定なだけでしたが、無理心中という事件によって、大学生活を送れなくなり、これから社会に迎合していくのは難しい状況になってしまいます。

 

 ミッドサマーをというのは、私の考えでは、「健常」である人たちに迷惑がられる存在であったダニーが、閉鎖的なコミュニティで育まれる「狂気」の中に自分の居場所を獲得する物語です。そういう意味において、私はこの物語を爽快だとはどうしても思えない。

 

 人はなぜ迷惑をかけてしまうのでしょう。

 そもそも、迷惑というものは、環境や対象によって左右されやすいと思うんです。ミッドサマーではそれをかなり明確に示しています。「ホルガ」と「社会」というものが面白いくらい対照的に描かれていることから明らかです。あくまで監督の価値観ではありますが、以下のような描写があります。

 

 

・社会では、女性は軽視されています。

 しかしホルガでは、女王が権力を持っています。

・社会では、障がい者は軽視されています。

 しかしホルガでは、障がい者が予言を示します。

・社会では、個人の命は個人の所有にあります。

 しかしホルガでは、命が個人の所有にありません。

・社会では、プライバシーがあります。

 しかしホルガでは、プライバシーが守られません。

・社会では、ドラッグはやってはいけないこととされています。

 しかしホルガでは、ドラッグが常用されています。

 

 

 きっとほかにもあるのですが、ざっと列挙しただけでもこのような数です。

 

 私には、特に障がい者の描き方というのが強いメッセージのように感じられていて、それはなぜかというと、生きているだけで迷惑になるという可能性が、この社会にはきっと存在しているんです。ものすごく認めたくないのですが。

 

 ホルガという環境では、「迷惑な存在」とされるものが逆転しているんです。

 

 ダニーは、一般社会の中では迷惑がられています。障がい者もそうです。しかし、ホルガの中では、健常なクリスチャンの友人たちが迷惑をかける存在として描かれます。逆に、ダニーや障がい者は祭り上げられます。

 

 私はここに、迷惑という価値観のなんと危ういものか、という監督の考えを感じてなりません。弱さはある環境では強さに変わることもあります。

 

 最終的に、ダニーを迷惑な存在としていた友人たちもクリスチャンも全員殺害されてしまいます。ダニーは、現実では明らかに敗者でした。弱い存在でした。しかし、ホルガという特殊な環境では勝者になり替わるのです。

 ホルガにおいて女王という権威を手に入れたダニーはもう迷惑ではないのです。

 

   誰かを、何かを、迷惑として処理することの恐ろしさを考えさせられます。

 

 

 

  • 共感で孤独は癒されるのか。

 

 

 さて、ダニーの孤独は癒され、コミュニティという家族を手に入れ、女王という(ホルガでの)社会的地位も得られた。失ったものをすべて取り戻した。ように見える。

 

 しかし、そこに居場所を見出したダニーは幸せなのか?

 という問いが生まれてくるのです。

 これでいい、とはどうしても思えない。

 

 ダニーが得たのは、質の違う孤独です。

 

 なぜなら、ラストシーン、ホルガの住民たちは焼かれる同胞の痛みを感じ取って泣き叫びます。ホルガの人々は共鳴しあっていて、他人の感情を自分のものとして感じられます。(これはドラッグによって、自分の手足が自然の一部に見える幻覚を見るシーンがありますが、それの人間バージョンのようなものではないでしょうか)

 しかし、ダニーは、その人々を尻目に、焼けていく建物を見て微笑みます。

 彼女は狂気の中にあっても、ホルガの人々とは別の存在なのです。これから同化していくのか、あるいはそうならないのかはわかりませんが、これは彼女にとって不幸だと感じてなりません。

 

 

 作品の冒頭で、ダニーは共感を欲していました。孤独を癒したいと感じていました。精神的な支えが必要でした。存在を肯定してもらいたがっていました。

 結果的に、それらすべては解決するのですが、果たして他人からの同調によって得られるものというのは、その人の孤独を真に解消するものなのでしょうか。

 これは別に、ホルガという特殊な環境においてだけでなく、我々の日常でも、例えばSNSで得られる「いいね」だって、きわめてインスタントな同調です。恋人からの「好きだよ」という言葉も、簡単な存在肯定になります。

 

 しかし、それも迷惑になる可能性というものがあるのです。繰り返すようですが、ほんとうに価値観というのは簡単に変わります。恋人だっていつか嫌いになることもあります。「好きだよ」が迷惑になる時もやってくるのです。(悲しい)「いいね」だって、炎上をまねくこともあります。同調の恐ろしさというのは、この移り代わりの鮮やかさにあると思うのです。同調圧力は、ほんとうに無責任なものです。

 

 

 迷惑になったら、消してしまえばいいのでしょうか?

 

 それによって孤独は癒されるのでしょうか。

 そうです、きっと、結果、残るのは新たな孤独なのです。 

 

 ミッドサマーから得られたものというのは、おおむねこのようなメッセージでした。

 

 

 面白かったー。

 

 

 

 そして人生は続く。

 

 

 

2020/03/19 御法川わちこ