蝉時雨と芸術家
継続していた更新を、しばらく怠っていた。
目の前の現実が騒がしく思考する余裕を失い。
気づけば、もう8月が終わりかけている。
演劇というもの。
いや、ありとあらゆる芸術の題材になっている。
夢追い人の話。
とにかくこれが、多いのだ。
最近、そのような作品ばかり見ていた。
どうにも触発されたのか、ぼんやりと考えていると、私の心は蝉に思いを馳せていた。
この頃、蝉の死骸を見かけることが多くなった。振り返ると、夏のはじまりを蝉の抜け殻で、夏のおわりを蝉の死骸で感じている。
ある日、蝉の死骸を、車が踏み潰すのを見た。
もう死んでいるものだとわかっていたのだが、それでも息を飲んだ。辺り一面、蝉の鳴き声でいっぱいだった。
この中の一匹が踏み躙られても、世界は何も変わらなかった。それどころか、騒がしさはいっとう増すばかりであった。
私達は、舞台上でなきわめく。
しかし、その生命に誰が目を向けるのだ。
多くがその存在を知られることなく死んでいく。
人間には蝉の声の区別がつかない。
ただ、うるさいなあ、と思うだけだ。
それと同じなんだろうか。
私達はなきわめいて、踏みにじられるだけの。
意味がなければ。
ただBGMになるだけだ。
価値がなければ。
見下されるだけだ。
私がバラバラになった死骸を横目に歩き去ったように。
私達は風景だろうか。
蝉との違いはなんだろうか。
なんだろうか。
なあ。
悔しいよ。
悔しくて悔しくて、
やりきれないよ。
やってらんねえよ。
しかし。
七日間しか生きないと言われていた蝉が、どうにも1ヶ月ほどは生きるらしいぞ、と判明したらしいじゃないか、
しぶとく生きていこう。
未だ、非自明なだけだ。
私たちの可能性は。不完全なものに宿る美は。
世の中は、分からないことまみれだ。
(オチつけようと考えて希望的観測で終わろうとしているけれど、私は納得してないからな。)
そして人生は続く。
2019/08/22