鯨と僕 (変わっていくということ)
自分だけが毎日、毎朝、違う人間として生まれ変わっている気がする。
これは1人で目覚めた時だけ起こる。
隣に人間が寝ていると、なんとなくその人の認知に合わせた形として振る舞っている。
けれど、サメのぬいぐるみを抱きしめて目を開くと、「わたし」は「ぼく」だったり「ジブン」だったりする。どうして「サメ」にならないのか、分からない。
だから、わたしの朝はいつも混乱から始まる。
知人に「ジブンは朝起きると昨日までと性別が違う時がある」と話した。
知人は笑って「それはノンバイナリーというんだよ」と答えた。
わたしはびっくりした。そんなことまで名前がついているのか。
この現象がわたし1人のものではないことに何故かガッカリしていた。
それでは、そのノンバイナリーとやらはどれくらい存在しているのか。
第三の性に分類されている「Xジェンダー」の人々は、米国では0.6%ほどある。
といわれても、いまいちピンとこない。
そもそも、日本では統計すらまともにとられていない。
こんなことが話したいわけではない。
ジブンは、自我が固定された人を羨ましく思ったのである。
こんな悩みをいちいち考えなきゃならない人生に絶望したのである。
わたしに必要なのは、具体的な統計やらアドバイスではなく、理性的な慰めだった。
それで、いつものように僕は鯨に泣きついた。
ノックを3回してドアをあけると、鯨は椅子に座ってこちらを見ていた。
かすかに白檀の香りがする。
机の上には居場所をなくした書類が散らばっている。
ひとしきり報告を終えると、鯨は「ふむ」と言った。
それから2分ほど黙っていた。
わたしはその間に涙をふいて落ち着こうと必死だった。
涙を拭きながら、こんなことを考えた。
「ふむ」と「なるほど」は鯨の口癖だ。
わたしは鯨を尊敬しているのでよく真似をする。
大事なのは1回きり「ふむ」と言うことだ。
繰り返してはいけない。よく間違える。
鯨は眼鏡の奥で僕のこころを見ながら
「あなたの性自認がどうであれ。身体は女性なのだから、毎月生理がくるでしょう。あなたが健康ならばね。月に一度、身体の内側が剥がれ落ちて新しく作り変わる。こんな臓器は男性にはない。だから、私には分からない感覚です。もし私が体験したら、辛いでしょうね」
そう言って1分ほど黙った。
瞳が細かく動いている。
逡巡の後、また喋った。
「あなたと私はよく似ているし、まったく別の生き物だ。だから、あなたの悩みは下らないとも興味深いとも思う。あなたが自分のことをどう思っているかは知らないよ。けれど、自分の悩みに対して、そんなに深く考えなくてもいいんだ。月に一度身体がリセットされる不思議と、毎日精神がリセットされる不思議は、よく似ているし、まったく別のものともいえる。だから、下らないとも興味深いとも思っていい。重要なのは、そういうものとして生きていくことなんだから」
そうして鯨は少し笑った。
「きっと今のあなたは、忙しいふりをしながら生活に飽きているんだね。あなたには没頭するものと、もっと明確に興味深い物事が必要なんだと、私はいつも思う。誰かに批判されたならまだしも、自己破壊をおこして苦しむ必要はないよ。僕が保証する。あなたは大丈夫だから」
こうして話をしているうちに、外はすっかり真っ暗になっていた。わたしは、何も解決していないのに、もう大丈夫になっていた。鯨が「あなたは大丈夫」と言うたびに、わたしはいつも素直に問題を受け入れられるのだった。そしてそれは、なんの問題にもならなくなっているのであった。
「ありがとう」
そう言って俯くわたしを、鯨は静かに見ていた。
「こちらこそ。ありがとうありがとう」
鯨が繰り返すのはありがとうだけだ。
これは忘れない。
ありがとうありがとう。