NARRATIVE

闘病日記と化した雑記です。

イヤホンをなくした世界

 

イヤホンをなくしてから一週間が経った。

 

泥酔してポケットから転げ落ちたのか。それとも、どこぞのお店にでも置いてきたのか。分からない。

 

そういえば、元々常用していたイヤホンを、酔っ払ってなだれ込んだ友達の家に置いてきている。先にあちらを取りに行くべきなのかもしれない。

 

その友達の家には、赤ん坊がいた。あの朝、わたしは頭痛とともに目が覚めた。その子は枕の上に、座っていた。見られていた、と思った。無言で見つめあった時、わたしの指を小さな掌で包んだ時、語りようのない時間が流れた。あの時、たしかにわたしは泣きだしそうだった。

 

ちょっとだけ行きにくい。

 

 

 

アルコール中毒者は脳みそが縮むと聞いたことがある。音楽を聞いているあいだ、前頭葉は働かないという話も。

 

わたしは何を必死になって、頭に血を送らないようにしているのだろう。物事の判断をしたくないからか。忘れたいことばかり思い浮かぶからか。

 

とまれ、と思う。電車で見聞きする人々の生活。わたしの足音。悪口をつまみに、いつも酔っぱらっているような女の人たち。

 

とまるな、と思う。草木のこすれる音。あの人の笑い声。遠くから聞こえる汽笛。坂を上る子どもの荒れた息遣い。

 

 

 

 

今日、夢のなかで君が「死ね」と言ってきたよ。弓のように振り絞って放たれた言葉だった。よく聞こえた。夢に意味なんてないのに、考え続けてしまう。罪悪感はなんの役にも立たないのにね。

 

 

 

 

居酒屋にて。

「愛している」と言われた。

感情よりも先に、その人が隣に生きている風景について考えた。どんな顔の子どもが生まれてくるのだろう、とか。普通に働いている人と一緒につくる家庭に対する憧れ、とか。いろんな感情が浮かんでは消えた。けれど、雑音。そういうことを考えた自分に嘔吐いた。反吐が出る。から、トイレで吐いた。アルコールの海に放たれた「愛している」が、可哀想だな、とボンヤリ思った。

 

 

 

昔付き合っていた人が女の人を家にあげてセックスしているのを見たことがある。時々あの頃の夢を見る。声が聞こえる。ノコギリの音と一緒に。ギコギコ。アンアン。ギコギコ。アンアン。このノコギリはなんの音なんだろう。聞いたことがないのに、わたしを守ってくれている。ギコギコ。アンアン。ギコギコ。アンアン。思い出しちゃダメだ。

 

 

 

 

最近。

 

わたしはたくさんの音を拾って生きている。

内側から聞こえてくる声。

外側から聞こえてくる声。

そのどれもが、現実として語りかけてくる。

 

 

イヤホンがほしい。

 

 

 

2021/12/26

居酒屋にて。

 

その人が餃子をテイクアウトする背中を見ていた。どうしてそんなことをするのか、理解ができなかった。一緒に飲んでいて、そんなことする人、はじめてだった。

 

「持って帰るんです」と、照れたように笑っていた。その隣に座っているみたいに置かれたプラスチックのなか、みちみちに詰まった餃子。

 

『愛している人がいるんだ』と、思った。

 

魂が震えた。

 

 

こんなふうに、愛を感じることがあるのか、人は。

すごく美しいものを見た気がする。

 

わたしも、そういう人になりたいよ。

最近は、なにも。

ちゃんと愛せていないな。

反省した。

 

じぶんが消費するばっかりで。

約束も守らないで。

それでいいと思っていたんだな。

無責任なほうが、楽しいから。

 

 

どうして餃子が羨ましかったんだろう。

自分だけ楽しめればいいと思っているうちは、手に入らない幸せの形だったからだな。

 

生き方を改めなきゃいけない。

なにをどのように愛するのか。

 

 

わたしはこの人を師と仰ぐことに決めた。

 

 

餃子が冷える前に、帰ろう。

理解には遠く及ばない雑記

 

「駆け引き」の意味も知らない人々が、誰かと幸福になりたいと嘯く街中で、わたしはひとり、心底、君に会いたいと思う。君に会って、この耳に流れ込む雑音が、この目に映る無造作な、あまりにも無造作な崩壊が、すべて消え去ればいい。安い酒が悲しみの身代わりになって死んでいく。みんな朝がやってくることを祈っている。

 

その夜にわたしは、どんなに自分の身体が強ばっているのかを知る。ほんとうの笑顔はここでしか見せまいと決意する。その部屋にはいつも少しの変化と、安定が漂う。ご飯を作ろう。明日も健康でいてほしいから。世界でいちばん尊い願いは、こんなお椀のうえに乗っかっている。

 

その朝にわたしは、世界のうつくしさを知る。まるで祝福されるように目が覚める。生まれ変わったら空は燃えるのだと理解する。眠るために死んで、目覚めるために生きて、愛が、ただ愛だけが、真実を教えてくれる。そしてまたその虹彩に救われるんだよ。君は知らない。朝日をうけた瞳の奥にある静謐な広がり。知らなくていい。

 

 

ツー、と降りてくる透明な、

 

 

子どもの頃。「蜘蛛の糸」でほんとうに救われるべきだったのは、御釈迦様だと信じてやまなかった。

 

 

 

 

朝。

二代目はクリスチャン

 

 

言葉にならない。錦糸町までの帰り道にある吐瀉物は、わたしのものだ。あまりにも烈しい感動によって嘔吐してしまった。こんなこと生まれて初めてだ。マスクがいろんな液体でベチャベチャになった。

 


稚拙な言葉で語りようもない。

でも言葉にしないと死にそうだ。ほんとうに。

横内謙介というお方のなかで、つかこうへいは生きていた。それを目撃してきた。

 


全編を彩るつかさんの独特な設定や言語感覚や軽やかな身体表現を、まったく違和感なく成立させていた。すべてが借り物ではなかった。信じられない。はっきりいって奇跡だ。

 


「つかこうへい」を冠した作品を観劇した帰り道、いつも物足りないものを感じていた。それは「俳優とつかさんの関係性によって成り立つ、目の前の人間になら己の誇りを委ねてもいいという痛切な信頼」にあったのだ。今わかった。「北区とつかこうへい」、「扉座横内謙介」だからこそ成り立つ真実を見せつけられた。極上だった。

 

扉座の俳優の方々は、紛れもなく人生をかけて横内さんの舞台を引き受けておられる。その信頼が、在りし日のつかさんの言葉を体現しようとした名優たちの魂と共鳴していた。

 

ひたむきな精神が身体を媒体とすることで、こんなにも美しい表現となりうるのだな。生かされようと必死に藻掻く人にしか生きることができない神聖な空間だった。

 

若者の我武者羅で誠実な瞳が、オーダーを達成するために無理をいって躍動する俳優の肉体が、今を精一杯楽しむ遊び心の数々が、嘘偽りのない全身全霊の叫びが、覚悟を決めた生き物の静かな集中が、石田ひかりさんの美しさが、あらゆる意志が説得力をもって生きていた。

 

 

「俳優の"俳"は、人に非ずとつけられているんだよ」と、知り合いが日本酒を煽りながら笑っていた。そんなどうしようもないとされている人々が、きちんと今回のテーマにこころを寄り添わせていたから、どんなシーンも愛しくキラキラと輝いていた。役の言葉ではなく、自分の言葉として魂がのっていた。

 

 

人とはなんて愛しいのか。もっと人生をかけて、自分の大切なものを愛さなければならない。こんな時代だとしても。つかさんがもう生きていなくても。

舞台が人生を変えるものだということ、すっかり忘れていた。精神にこびりついた贅肉を無理くり剥がしてもらったような気分だ。

わたしはいったい何度つかこうへいの言葉にこころの扉をぶち破られるんだよ。いや、もう横内さんの言葉なのか。生きる希望だよ。ちくしょー。

 

すみません本当にネタバレしたくないんですけれど、あの殺陣はずるいよ。もうあんなの、ファンにはたまらないよ。客席で隣の人を気にせず嗚咽したのは初めてだった。音楽が爆音だったので集中を削いでいないことを願う。細やかな設定や照明や音響や演出、ピンとくる人には正真正銘、垂涎ものですよ。ただ「花束」の使いどころだけは気にくわない。

帰ったら戯曲集読み直そう。いや、あれは人に貸してしまったのだった。これを読んでいたら返してください。


この作品を届けるために尽くされた粉骨砕身の努力。舞台関係者の方々にこころからお礼を言いたい。久しぶりに心の底から演劇を愛せました。素晴らしい時間をありがとうございます。

興奮のままに書きなぐった文章ですが、とにかく、シンプルに「ありがとう!」とお伝えしたい。

悔しくて嬉しくて悲しくて、ショックだ。どうしようもなくなっちゃったな。最高だった。

 

 

こころが煮こごりになっても

 

肋骨の隙間に愛が挟まってとれない

 

どうにも不在のなかに存在があるようだ

 

痛みが味覚のない過去を知らしめる

 

自分の耳からしか心臓の鼓動は聞こえない

 

ここからじゃ見えない

 

遠くから慣れ親しんだ闇がみている

 

指先から後悔が錆のようにひろがる

 

もうすぐ唇に届くのだろう

 

少しずつ口角が上がらなくなる

 

あれから魂が半分に割れてしまった

 

片割れはどこか少し遠いところで息をしている

 

気配だけが見ている

 

わたしはまだ生きている

 

もういいんだ

 

すべての人に理解されなくてもいい

 

すべての人に好かれなくてもいい

 

知らず知らずのうちにコンパスが回って

 

こころのなかに聖域ができている

 

光る窓辺に腰掛けた人々が見ている

 

その視線のあたたかさがわかる

 

凝り固まって煮こごりのようになったこころが

 

柔らかに溶けていくのをかんじる

 

つまらない人間になっていくのかな

 

 

父と母がわたしに背負わせた

この世に産まれるという罪を

誰かと睦み合いながら

神に許しを乞うために

生きているのか

 

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お別れの向こう側から

 

 愛犬との闘病生活が、突然に終わった。

 

 

 その知らせを、私は外出先で受け取った。電話をかけてくれた妹は、なんだか落ち着いた口調だった。テレビ通話に切り替えて遺体を確認しても、それは現実味のない風景だった。どこも動いていないのだけれど、お腹が上下しているような錯覚に陥った。

 いつかはこんな日が来ると思っていた。もっと背中を冷水が流れ落ちるような感覚がするのかと思った。実際は、ため息が出て、そうか。と、心の中で言葉が浮遊しただけだった。ドラマチックなものなんて何一つなかった。

 

 

 とにかく帰宅しなくてはと思った。用事を済まして、熱い日差しを感じながら坂を降っていると、何かが確実に違うのに、何も変わっていない現実が心底不思議だった。

 昼過ぎの、人の少ない下り方向の電車に乗りながら、落ち着いて会いたいからカフェにでも寄って帰ろうかな、とぼんやり考えていると、突然ぼろぼろぼろぼろ涙が溢れてきた。

 それは自覚とも理解とも違った。

 頭は冷静なのに、涙だけが壊れたみたいに止まらなかった。

 

 

 家に帰って、玄関を抜けると母の丸まった背中が見えた。ゆっくり振り返って私の名前を呼ぶ母の声は、気の抜けた様な音がしていた。泣き疲れた人の声だった。

 母の前にある長方形の大きな段ボールは、紛れもなく棺の役目を果たしていた。

 

 人生で取り返しがつかないのは死だけなのだ。と、その時分かった。

 

 

 犬を飼う人にも様々なスタンスがあると思うのだけれど、我が家は家族同然に扱うタイプだった。話し合った結果、火葬を見守ることに決まった。

 

 愛犬の棺の横で、家族が泣いたり、話しかけたり、思い出話で笑ったり、顔をつきあわせてご飯を食べたりしていた。妹は朝まで愛犬の側から離れなかった。

 私は眠れない夜のあいだに、私たちは大切な存在を失ったけれども、同時にこの子の隣で、こんな風に大切な瞬間をいくつも過ごしていたのだと思った。

 宇多田ヒカルが、死と生は隣り合っていると話していたのを思い出していた。私はその意見に賛成していたのだけれども、愛犬のおかげで痛みと共に実感として理解できた。

 

 

 対応の丁寧なお寺で、消沈する家族の心もずいぶん癒された様だった。

 室内にいるのも居心地悪く、蝉が鳴きわめくお寺の境内で座り込んでいた。すると、人懐っこい猫が寄ってきた。猫を撫でながら、ありがとうと呟いた。猫は気ままでいいな。でも、飼うのはやっぱり犬がいいよ。

 マスクをつけた人がチラホラ横を通り、お線香をあげて手を合わせていた。こんな場所があって、その人々の一人に自分がなる日が来るなんて、考えたこともなかった。

 

 名前を呼ばれて、狭い、工場のような音のする小部屋に入った。きちんと遺影が飾られていて、その写真でさえ愛しいと思えて、何故か笑ってしまった。マスクをしていたから、妹に怒られることはなかった。

 

 大好きな食べ物を亡骸の横に置いて、花でいっぱいに飾りつけた。

 綺麗だった。

 

 あっという間に儀式の最後で、愛犬を送り出さなければならなかった。

 シャッターがゆっくり閉まっていく瞬間のことだった。

 不意に「ああ、これ、人生で一番悲しい」と心の中で叫び声がした。

 

 すごく長い時間のように感じた。みんな黙っていた。

 おばあちゃんが、ぽつりと、「ありがとうね」といった。すると、空間のなかで堪えていたものが決壊して、家族が次々に名前を呼んだり、感謝の言葉を投げかけたりした。私は何も言えなかった。悲しすぎて喋れなくなるというのは、こういうことなのかと思った。

 

 納骨のために家族で骨を拾っていると、妹が「骨までかわいいね」と言った。私はショックを受けていたので何も答えられなかったけれど、何故か納骨の儀式はその日1番の盛り上がりを見せていた。担当の方が各部位を説明するたびに、それぞれが博物館で解説を受ける子どもみたいな反応をしていた。静かにしてくれ、と思った。

 

 最後に頭蓋骨を持ってみんなに見せるとき、骨の欠片が左手に落ちてきた。

 どうしてか、それを手放す事ができなかった。家族に見つからないようにずっと握りしめて、いけないことを考えていた。ぐるぐる、ぐるぐる自分を正当化する言葉を用意して、最後は諦めたように、そうするしかないと悟った。

 帰りの車のなかで、私はその骨を親指と人差し指ですり潰して食べた。

 その行為の意味は、私しか知らなくていいと思った。

 

 

 

 今、うちの家には綺麗に包装された骨壷があり、隣に写真立てが置かれている。

 そのようにして私は、人生で初めて、家族を喪失した。

 

 

 

 

 ある程度の時間が経って、不思議なことに悲しみと同じくらい、感謝の気持ちがある。

 そして、喪失した存在のために、自分が生を全うしよう、と遺影を見るたびに思う。

 月並みな言葉ばかり浮かんでは消えて、今はシンプルに安定した。

 

 これは本当なのだけれど、あの子は私が死なない限り、私の中にあり続けるのだ。

 だから、その存在を引き受けて、生きていかなければならない。

 ただ一つの証明をするために。

 

 ありがとう。

 眠い時に香る独特な匂いが大好きだった。

 

 また会おう。

 

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2021/08/10

芥川だって35歳まで頑張ったんだから

 

 

愛犬が癌になった。

 

いま、余命宣告を受けている。

 

でもまだ生きてる。

 

 

 

 

わたしは独特な言語感覚をもっている。

 

さんざん指摘されたので、事実なのだろう。

 

それは今より昔の方がよっぽど酷かった。

 

だから、言葉のいらない動物には随分癒された。

 

はっきりいって今もそうだ。

 

この先、そのような存在を失うんだなあ。

 

言葉をもたない存在に、どれだけ救われたか。

 

どうにかして代わってあげたい。

 

毎日、悲鳴のような喘鳴を聞きながら思う。

 

受けとめられるだろうか。

 

この子の身体を愛しているわけではない。

 

魂を愛している。

 

肉体が滅びても、不滅なものはあるよ。

 

分かってる。

 

けれど怖い。

 

それ以外に言葉がない。

 

自分が生きるのに疲れているのに、それ以上に苦しんでいるこの子を引き留めちゃいけないね。分かっちゃいるけど遣る瀬ない。

 

この子の魂が肉体から離れて、きっとなにかが永遠に変わるんだ。

 

有限のなにかを喪失する。

 

無限のなにかを獲得する。

 

 

 

詩にもマトモな文章にもならない。だから理解もされない。何の価値もない自分の言葉を情けなく思う。それでも感情を形にするためには言葉に変えるしかない。

 

この子に伝えるためにどんな手段があるのだろう。

 

あなたがどれだけ大切で、誰にも心を開けなかったわたしを支えてくれたか。

 

ありがとうありがとう。

 

もう少しだけ一緒にいようね。

 

大丈夫だよ。

 

大切なものは、大切にできるうちにするから。

 

この気持ちを忘れないように残しておこう。

 

意識が永遠に残るために、言葉がある。

 

わたしはそう信じてる。

 

真実を大切にしたいだけだ。

 

この悲しみをきちんと表現出来ているのか分からない。

 

 

 

もう起き上がるのも厳しい。

 

それなのに毎晩一緒に眠ろうとしてくれてありがとう。

 

まだ心配をかけているのかもしれない。

 

弱くてごめんね。

 

第一発見者はわたしだったらいいと思う。

 

目を逸らさずにいる。

 

今日も寝ようね。

 

 

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