NARRATIVE

闘病日記と化した雑記です。

今夜の思索

 

この記事自我が強すぎてあんまり好きじゃないのでそのうち引き出しにしまおうと思います…

 

 

 

眠れない夜は思索に限る。

ノンストップでいこう。

 

 

ふと気づいたことがある。

私は寂しいと思うことがあんまりない。

 

なぜなら、常に私には、「ジブン」という滅茶苦茶面白い親友がいるからだ。そいつは、いつも知的好奇心に満ちたキラキラした目をしながら私に話しかけてくる。日々感じたことを報告したり、考えたいことを提案したり、一緒にいろんなことを探してくれる。その子がいるから、私はあんまり寂しいと思わない。

 

もちろん、それは私自身が恵まれているからでもある。何かしらの試練や忍耐を要する出来事がしょっちゅう降りかかってくる。その度に、己の弱さや醜さ、執着といったものをまじまじと見つめなくてはならない。しかし、その過程でいくつか大切な教訓を得る。これもやはり、私の人生を豊かにしている。ありがたい。

 

 

しかしなあ、人を傷つけずに生きるというのは、本当に難しい。私は昔Twitterをよく使っていて(最近復活したけど既に後悔まみれだ、全然面白くないツイートばかりしている)、そこには私の懺悔ばかりが載せられていた。今日はこんなことをしてしまった、そしてこう感じた……というようなことがつらつら述べられている。どう考えても病んでます本当にありがとうございました。しかし、それを見て確かにジブンを感じていた。

 

最近思うことは、ジブンの心は守れないけれど、脳を守ることはできるな、ということだ。脳というのは不思議なもので、己が考えた方向に枝葉を伸ばしていくそうなのだ。つまり、己がポジティブなことを考え続ければ、どんどん肯定的に考えるのが得意になる。回路がそちらに繋がりやすくなる。しかし、そう、逆も然り。それは、悲しい。心は不用意に傷つき、引き裂かれることがある。唐突に。けれど、その傷ついた心を癒すのはやはり脳の働きで、その働かせ方、動かし方を身につけるのは己の仕事なのだ。つまり、誰かに傷つけられた時、人を憎む方向に脳を動かすか?  人を許す方向に脳を動かすか? これにより、ジブンに(も、他人にも)優しくあるということは可能になる。修行は必要だけれどね。

 

 

日々、声を聞いていなくてはいけないな、と思う。人の声を。しんどいことばかりだが、人について思考を巡らせるのは大事だ。そこで最近気づいたのだが、本当に性格というのは声に宿るのだな、と、心を声で聞き分けることができるようになってきた。

 

(そう、なんと! ジブンの声の出し方も人によって違うのだ。これは本当に不思議で、無意識だったから驚いた。どうやら私は、人によって性格を変えているらしい。そして、無意識に恐れていたり着飾ろうとする時も気づいて守ってやれるようになってきた。が、非常によろしくないので、統合しようと号令をかけているところだ。)

 

声帯というのは、まさしく人が生まれながらに装備してきた楽器そのものだ。よく、ゲームの武器……そう、例えばモンハンなんかでよく、武器のレベルを上げて改造したりできるじゃないか。その進化の軌跡を見れたりするじゃないか。あれに少し似ているかもしれない。

 

悪口をよく言う人の声は、やはり「悪口を言う形状」になっている。綺麗な声帯を持つ人もいる。声の出し方、響き、こういうものは、かなり注意して聞いていると聞き分けられるようになってくる。……しかし、これを詐欺師は熟知して、人が心地よいと感じる音域の性感帯にチューニングを合わせている場合もある。昔はよく騙されたものだが、おそらく今後も騙されながら学ぶのであろう。うむ。

 

私は音楽が好きで、言葉の垣根を越え、意味なんか分からずとも、どんなものでも永遠と楽しんでいられる。おそらく、それは……………

 

 

 

眠くなってきた。

よし、今夜はここまで寝ようと思う。

 

そして人生は続く。

 

 

 

 

2019/09/12